• 議事録

第121回J.I. フォーラム 「福祉」は本当に人を幸せにするのか  2007/08/30(木)開催
ゲスト 宇沢弘文 (東京大学名誉教授/『経済学と人間の心』『社会的共通資本』著者 )
田中優子 (法政大学教授/『江戸の想像力』『大江戸ボランティア事情(共著)』著者)
コーディネーター
山岡淳一郎 (ノンフィクション作家/『後藤新平 日本の羅針盤となった男』著者)

第121回J.I. フォーラム 2007.8.30
「福祉」は本当に人を幸せにするのか

加藤:
年金にしても、医療にしても、介護にしても、突き詰めていえば今の福祉というのは、結局金で問題を解決しようとしているとも言えます。だからこそ金の出し手と受け手で、アンバランスがあって、(予算が)足りなくなってくると制度自体が崩壊する、それで大変だということになっている。私が残念なのは、政治家であれ、官僚であれ、あるいは学者であれ、年金の専門家といわれる人たちは、実は制度以上のことはほとんど議論していないんですね。私は構想日本をはじめて、随分色んな人とお付き合いさせていただいています。田舎に行ってお百姓と話をしていると、「加藤さん、年金というのは本当に良いものなのかね」といわれたことがあるんですね。「え、何でですか」といったら、年金をもらったり、まぁ田舎でもある程度の介護の施設がある。そういう所に入って、何もしなくても暮らしていける。そうすると、楽は楽なんですね。しかし、演技しているんじゃないかと思う位、ついこの間まで元気に畑作業をしていた人が、どんどん元気じゃなくなってくる。あれは本当に人を幸せにするのかね、というある意味では凄く素朴な疑問なんですが、私はこれは極めて本質的だと思いますね。そのお百姓さんいわく、昔は田んぼなり畑なりで働いていた人たは、歳をとってくると菜っぱ位を作る。それもできなくなってくると、自分は畑の周りの草を引く位のことをやって、それもできなくなったら家で孫やひ孫の世話でもしながら、そうやって何かの役割を果たしながら死んでいったんだと。ところが、今の福祉制度というのはそこをどこかでちょん切って、そこから先は「もうあんたはよくやったから、後はこのお金で楽に暮らしたら」という一見良さそうで、本当は人から元気を奪ったりすることに結果的になっている。職人であれば、歳をとって、目が見えなくなる、手先が利かなくなる、それでも竹の株を編む、木を加工する。ところが、お金をもらうとそれが必要なくなる。必要なくなると同時に、後継者も作らなくなる。そこで手仕事の伝統はそこでプツンと切れてしまう。それで個人も世の中もいいのかね、という、非常に本質的な問いかけに、私には聞こえました。ですから、今日はそういうことを含めて、今我々が当然良いもの、さらにレベルの高いものを求めようといっている、福祉の様々なしくみを、基本から、3人の方に議論していただければなと思っております。山岡さん、2回連続で本当にありがとうございます。今日は宇沢さん、田中さん、それぞれとっても蓄積をお持ちのお二人に来ていただきました。よろしくお願いいたします。

山岡:
 今日はお忙しい所たくさんの方にお集まりいただきまして、ありがとうございます。ゲストに社会的共通資本の思想を展開してこられた、経済学の第一人者である宇沢弘文先生をお迎えしました。宇沢先生、よろしくお願いします。そして、もう一方、江戸文化の研究者で名高い田中優子先生をお迎えしました。どうぞよろしくお願いいたします。今日はこの両先生をお迎えして、年金制度の奥にある、幸せを求めて人と人が助け合うとはどういうことなのか。それはお金であがなえるものなのか。あるいは、福祉に関わるサービスを市場化することによって、本当に私たちは幸せになれるのか。そういったようなところを視野に入れて色々お話をしていきたいと思います。まずはお二人の先生にお話をお聞きする前にですね、ちょっと昨今の世の中の動きを見てみますと、私たちの生活は、グローバル資本主義という大きな波を被っているわけですけど、その大元のアメリカで、軍産複合体というものに支えられたブッシュ政権というものが、ここへきて大統領の腹心の幹部がどんどん辞任したりして、どうも流れが変わってきたのではないのかなと。行き過ぎた市場原理主義というものに対して、そろそろ見直そうという動きが出てきたような気がしております。その一例が、今公開されております、マイケル・ムーアが監督した「シッコ」という映画で、アメリカの医療の現状をかなり克明に追ったドキュメンタリー映画です。アメリカの医療というのは国民の六人に一人は無保険者状態で、しかも民間の医療保険が牛耳っているために、お金の切れ目が命の切れ目という形で、必要な医療を受けられない人がかなりたくさんいる。マイケル・ムーアはこれを今回非常に執拗に追っかけていって、国民皆保険制度の大切さを訴えているようです。1961年に、日本では国民皆保険制度は達成されたことにはなっているんですけど、41年間それに慣らされているうちにだんだん空気のような存在になって、国民皆保険制度を支えている理念の核心がぼやけてきている。その核心は何なのかというと、貧乏人も金持ちも「困ったときはお互い様」、この精神だと思うんですね。生まれてきた人間は100%死ぬわけですから、その苦しみの前で皆で支え合おうというのが国民皆保険制度の考え方だと思います。そういうことを市場原理主義のアメリカ合衆国の中でも、映画とはいえ、見直そうという動きが出てきております。このように、若干風向きが変わってきたのかなと感じておるんですけど、今日の本題のですね、福祉を広い意味での「幸せ」と捉えまして、私たちが個々に自立しながら、しかし同時にお互いを助け合う、協力し合う。そういう形で、新しい仕組みや文化を作っていくには、これから先どういうことが大切になってくるのか、ということをまずお二人の先生に投げかけたいと思います。宇沢先生、先程の加藤さんの年金の話なども踏まえて、今申し上げましたアメリカの風向きの変化も見据えながら、今後日本の中でですね、お互いの暮らしが成り立つ上での助け合いの大切な部分といいますか、そのあたりからお話をいただけますか。

宇沢:
 今、山岡さんから問題提起がありましたが、市場原理主義についてお話したいと思います。市場原理主義と私たちが呼んでいるのは、1960年代の半ば頃、ミルトン・フリードマンが中心になって強烈に展開して、世界中に広めた経済学の一つの考え方です。私は実はその頃シカゴ大学にいまして、ミルトン・フリードマンとは同僚でした。ミルトン・フリードマンの強烈な考えに反発を感じていました、非常に悩み、最後に戦いに敗れて日本に帰ってきたという感じを持っています。そういうこともあって、山岡さんがおっしゃったので、私も言わしていただきたいと思います。フリードマンの考えを一番象徴する市場原理主義とは何かと。実はあまりはっきりしない。私たちはフリードマンの書く論文とかエッセイとか、それから日常会話を通じてで,あぁこれが市場原理主義かと理解してきました。そのフリードマンの考え方の特徴をエピソード的にいくつかお話したいと思います。1964年に、私はシカゴ大学に移りました。当時、ジョンソンとゴールドウォーターの間で大統領選挙があったんですね。その直前に、ゴールドウォーターがベトナムで水素爆弾を使うべきだという発言をして、大変な問題が起こりました。そのときに、フリードマンがゴールドウォーターの発言を積極的に支持した。自由を守るために、何百万人のベトナム人が死んでも構わないという強烈な発言をしました。私たちは本当に恥ずかしい思いをしたんですね。その頃、フリードマンはゴールドウォーターに呼ばれて、アドバイスをして帰ってきました。そのときに最初にいった言葉が、”Goldwater is the man. Compared with him, Richard Nixon is a communist” という非常に強烈な発言でした。そのときのニクソンへのアドバイスの中に、TVAを民営化しろというのがありました。アメリカの大恐慌の際に、ルーズベルトがニューディール政策を打ち出したわけです。ニューディール政策というのは二つありました。大恐慌が起こった一番の原因は、人々が投機的なことに走ったことでした.それに銀行が金を貸して、バブルの形成、そして破裂になったわけです。そこで銀行法を改正して、銀行は社会的共通資本として、大事なものとして守る。だから投機的なこととか、反社会的なことに銀行は金を貸しちゃいけないという非常に厳しい改正が行われたわけですね。もう一つはTVA、Tennessee Valley Authority。ミシシッピーの南部に5つ位州がありますけれども、その広大なミシシッピーの流域に、公的な資金でダムを作ったり,道路を作ったり、あるいは都市の基盤を作ったりして開発したんですね。大恐慌で,南部は大きな被害を受けましたけれど、立ち直るきっかけになった。大事なことは、社会的共通資本として、大事なものとして皆が守るといいうことです。それを民営化するようアドバイスしたわけです。ある日、ニューヨークタイムスの第一面のヘッドラインにこういうのが載りました。記者がフリードマンに直接コンタクトできなくて、ゴールドウォーターのところに行って、あなたが大統領になったらフリードマン教授のアドバイスを求めるつもりかと。それに答えて、ゴールドウォーターがノーと言った。”Because he is too extreme.” それがヘッドラインになったのです。「ヴェトナムに水素爆弾を落とせというゴールドウォーターよりもっと過激なのがシカゴ大学にいる」というヘッドラインだったわけです。

山岡:
 今のお話の中にはキーワードが二つあると思うんですね。「社会的共通資本」が宇沢先生の口から出ましたけども、市場の中で取引すれば良いというものではない大事なものとして、社会的共通資本があります。社会的共通資本には、大自然があり、社会的なインフラがあり、制度としての金融や医療があるということですね。では、田中先生にお話をお聞きしたいんですけども、田中先生は江戸時代の研究を通して、江戸時代が、いわゆる行政単位によって区分されたところで何事かが粛々と進んでおったのではなくて、むしろ生活の単位で庶民が、自分達で、例えば俳諧を通して作った連であったり、宗教的なものを通して作った講であったり、そういったものが実は互いの助け合いを非常に強く支えていたという研究をなさっていますけども、現代はコミュニティが崩壊したといわれ久しいのですが、この現代から見て江戸の文化の学ぶべきところといいますか、あるいはもし今に転用することができるならばどういうところがあるのかをお話いただきたいと思います。

田中:
 社会的共通資本という言葉を聞いても、多分私達の脳裏に浮かぶ単位というのは国なんじゃないでしょうか。公と私ということを考えても、単位は国なんでしょう。つまり、私達の頭の中にある単位は国と個人、それから公と私ではないでしょうか。そのことを実現化するという場合にも、私たちはどうも行政とか国を思い浮かべてしまう。それから、人が集まるということでいうと、私達の頭の中に浮かぶのは集団と個という言葉だと思うんです。ところが、国と個人ではなく、集団と個でもないあり様というのが存在するんです。今は私達の頭の中に浮かばない位になっているんですが、歴史的には非常に長くそれが存在していたんです。物が作られる現場を江戸時代で見ていますと、個人で作ってはいない、だからといって集団で、大勢の人達で作っているわけでもない。
今私達が考えるような社会資本、つまり弱い立場の人達を助けるということや、生きていられなくならないように資本を整えるということは、江戸時代にもあります。あるんですが、それを国が用意しているかというと、違うんですね。じゃあどこにあるのか。至るところにあるんです。一体その単位は何なのか。これは制度の方でなくて、つまり政治の方ではなくて、現実の生活を見ていればすぐに分かってくる。それが今おっしゃっていた講や連などの小さな単位です。江戸時代というと、恐らく皆さんの脳裏にもう一つ浮かぶのは、ムラというものですが、ムラという単位は大きすぎます。そのムラが何もかも用意しているということはありません。ムラももっと小さな単位に分かれているわけなんですが、さらに小さな単位というのがあって、それが結や講や座という言葉で、あるいは会という言葉で表現されます。都会でいいますと、社、会、連、様々な言葉がありますが、非常に活発に具体的に機能しているものとしてましては、村落の中に組というものがありました。年齢と性別によって分かれていました。若衆組、その他子供達の組であるとか、様々な名称がありました。これは非常に実質的なもので、警察機能を持っていたり、災害のときに助けてくれたりします。これが若衆組なんです。これは若衆組としての義務なんです。この人達にお金が支払われるわけではありません。
私が今申し上げた単位というのは、非常に小さい単位で五人位です。大きい単位でも二十人を越えないのではないかと思いますが、そのように非常に小さな単位が組み合わさっている。一つにだけ所属するとかそこにずっと所属するとかいうことではなくて、非常にたくさんの組に一人が所属しているということになるんですが、それが組み合わさって社会を営んでいるんですね。これは集団ともいえない、つまり集団とか組織化ということになりますと、組織は大きい方が良いという発想をしてしまうんですが、大きくなると身動きが取れなくなるので、そういう意味で集団的な結束を最終目的にしてはいないわけなので、大変機能的なものです。そういうようなものが組み合わさって、社会ができている。そういう小さな単位が、日常的には助け合っていた。助け合っているといっても、助けた人に何か得があるのかっていうと、やがて自分の所に返ってくると考えるんですね。もうこうなりますと、発想法ということになります。「情けは人のためならず」という言葉が浸透していまして、これは人のために何かをすれば必ず自分のところに返ってくる。この発想の基本になっているのは、おそらく仏教なのではないか。実際に、四国八十八箇所めぐりだとか、伊勢参りだとかそういうときにも、自分の家の前を通っている巡礼に対して何かをあげるわけですよね、お金なりお米なり。これはあげた人に何か得があるのかを追求していくと、何も戻ってこないかもしれないんですが、しかしそうすることによって、自分の人間としての何かが得られるわけです。そういう精神的なものを含めてということです。具体的なことはまた後でお話するとして、基本的にそういうようなものが社会を構成しているというのが、少し前までの日本でした。

山岡:
 ついこの間まで、田中先生がおっしゃったように、「情けは人のためならず」、あるいは、稲作の共同作業を通して助け合わなければいけない時代が、長く続いていました。それが私達のDNAの中にあるかと思うんですね。社会的共通資本について、宇沢先生に改めてお聞きしたいんですが、先生がこの社会的共通資本を発想された根底には、いわゆるコモンズ、これは日本語では共有地と呼べるんでしょうか。このコモンズに対する眼差しがおありだっとお聞きしたんですけれど、その発想の原点と今田中先生がおっしゃった日本的な伝統みたいなものの、その折り合いはいかがでしょうか。

宇沢:
 答えになるかどうか分からないんですが、実はコモンズという考え方は、日本の入会が一つの原点なんですね。今から四十年位前にマッキーンという女性の研究者が東大に留学していてですね、石田雄さんの研究室にいたんですが、石田さんのサジェスチョンで、小繋の調査に行ったんですね。小繋というのは、明治から現在にかけて、コモンズの問題の一番典型的なケースです。盛岡の北百キロ位のところにあるんですけど、三十件位の小さな部落です。そこには山があって、共同で所有して、共同で使って共同で管理している。一番大事なのは火事のとき。山から木を切り出して、家を建てる。その典型が小繋だったんですね。国の管理、社会的共通資本の一番のポイントはですね、大部分の社会的共通資本は決して国が管理しないことです。世界中にいろいろな名前のコモンズがあります。それをコモンズと総称して、国際的なコモンズ研究学会も立ち上がっています。

山岡:
入会地の使い方は、村落の人達自身で決めて、もしそこを使いすぎたり、ルールに反した人間がいたとすると、村八分という形で罰が与えられたとも聞きます。非常に自立的な、自治的な形態だったのでしょう。一方で、コモンズを語るときに、いわゆる「コモンズの悲劇」とい問題が浮上します。イギリスで牧草地をコモンズとして皆に開放した。ところが、その牧草地にダーっと色んな人が入ってきて、牧草を取り尽くして、あっという間に牧草が枯れてしまう。このことをコモンズの悲劇ということで、コモンズのネガティブな一つの捉え方として捉える場合もある。人間の欲望を解放していけば、コモンズも枯れてしまう。欲望をある程度コントロールしなくては、コモンズの資源も枯渇する。田中先生、連や講というのが、ネットワークとしてのコモンズだったのかもしれまんせけど、仮にそうだったとして、具体的にどういう風にしてお互いが助け合ったのか。そのネットワークを使って何かを新しく生み出したのか。具体的に教えていただけますか。

田中:
 例えば、親を失った子供がいた場合どうするかということなんですが、私達の社会だと施設に入れるという話になるんですね。当時は当然施設がないので、ムラで育てることになりますが、やはり具体的には個人が育てることになります。引き取る人は自分の家のお金でそれをやらなきゃならないのか。そのときに頼母子講のようなものが機能するんです。そういう事情であるということを皆が飲み込んだ上で、頼母子講をやるわけですね。そこに必ず落ちるようにする。もちろんそれ以外のやり方で、まわりの人達がその家に、今でいえば寄付することによって、その子供が育っていくような仕組みを作っていくということが現実に行われていました。それからもう一つムラの中で破産する人もいます。そうなった場合どうするかなんですが、見放してしまうのかというとそうではなくて、色々な方法があります。例えば、復帰をするためにもう一度しばらく山の中で生活をしながら、別の耕作をする。どうして山の中かというと、年貢を納められないわけですね。集落のなかに居ることができないわけですね。しばらくそこにいることによって、もう一度帰ってこられるようにする。そういう風に、実際にお金でということもあるし、そのような何らかの方法を使ってということもありますが、色々な機能の仕方があります。
特定の誰かが困ったというのではなく、家を建て直さなければならないとか屋根を葺かなきゃならないという場合もあります。屋根は萱で葺く。その萱は入会地で育てる。そして、その萱は共有物である。屋根を一軒一軒葺いていくわけですが、一家の人数だけではできないので、全員が出て行って、屋根を直すわけですね。入会地という地面、そしてそこで育つ何らかの植物ということだけでなく、労働力ですよね。田植えとか稲刈りのときには自分の所のことをやるだけではなく、全員が全員の所をやるというのは皆さんご存知だと思いますが、そのような仕組みが、農作業でにはあった。農村は、産業の場です。ですから、今私たちがそういうことをできなくなった一つの理由は、消費の場と産業の場が分離しているからなんです。生活をしているということは、本当はそこで物を産み出して、稼いでいるわけです。ところが、私たちは家に帰ると家のことをやって、会社に行って働いています。これは完全に分離しています。どうしてこんな分離が始まったかというと、工場労働が始まったからなんです。分離をしたためにコミュニティというのは崩壊するわけなんですね。もともと産業の場、物を生み出す場がそこにあったから、お互いに協力しなければ産業が成り立ちません。家の財産ということも個人の財産というだけではなくて、家産というんですが、家の財産ですね。人は家産のために働くわけです。もう自分は家産とは関係ないというのを隠居というんです。家の財産のためには働かないですが、隠居も働く人はたくさんいます。初めて自分のために働く。初めて自分のために生きるということなんです。伊能忠敬も井原西鶴も松尾芭蕉も皆隠居後なんですよ、私達に文化的な財産を残したのは。隠居後というのは働かなくなるということではなくて、家産とは関わらないということです。家督を譲るというのはそういうことです。働いて何かを得るということがいつも個人のためにしているわけではないので、時間の考え方が非常に長いです。ですから、家が続いていくためにはどうしたら良いとか、村落が続いていくためにはどうしたら良いのかを考えている。もう一ついいますと、入会地であるとかそういう共通のものを育てて、これがあったから現在日本の山はまだ非常にたくさんの樹木に覆われていますね。江戸時代の初期には、相当な伐採が行われています。これはもう日本中真っ裸になっていても不思議ではない位の伐採が行われていました。でも、それを食い止めていました。食い止めるだけではなく、育林をしていました。その背景には、江戸時代になりますと藩や幕府は色んな規則を作りますから、そういう力もありますが、それだけでは絶対いうことを聞くはずがないんですね。やはりこれは合意のもとで行われているわけで、それが止め山といってこの山の木は切らないで欲しい、とか停止木といってこの木は切らない、といったように色んな制度として実現化していって、さらにそれが育林に発展していくわけです。これはやはり、自分達が使う木です。自分達が使う木が無くならないようにするための育林です。どうしてさっきのコモンズの悲劇みたいに誰かが突っ走ってしてしまって、台無しになったりしなかったのか。寄り合いが非常に大きな力を持っていたからだと思います。寄り合いというのは参加率100%でなければ開かないという位に完全参加制で、一つの大事なことを決めるためには何日もやるんですね。これも私達のように住む場所と働く場所が分離している場合はできないんじゃないかな、と思うんです。というのは、お互いに大体同じような仕事をしていて、同じところで生産も消費をしていますので、そういう隙をぬって何日も何日も。江戸時代では多数決というのは、仕方の無い最終的な手段ですから、多数決は最良の手段だとは考えられていませんでしたので、多数決にならないようにしていたんですね。それは全員が納得するということです。そこにいくために何日もかけるわけです。この積み重ねがないと、やはり誰かが突っ走るんじゃないですかね。そこまでやりますので、村八分は効き目があります。ここまでやって、お前納得しただろうという話ですよね。なのに破るのか。ですから、村八分されてもしょうがないわけです。そのような仕組みですから、結束が強いといっても強制的な結束では続かないですので、徹底的な話し合いによるコミュニティが存在していて、それがお金ではなくて、労働力を出し合うということにも繋がるという風に思っております。

山岡:
 今のお話を聞くと、民主主義って一体何だったのかな、とついつい考えてしまうんですが、先人の知恵に改めて驚かされました。宇沢先生、今の田中先生のお話を聞かれて、社会的共通資本、あるいはコモンズと呼ばれているものを管理、運営するという視点からは、どうお感じになられましたか?

宇沢:
 その前にね、田中さんがコモンズの悲劇という言葉を使われたんですね。それは全く意味の無い言葉なんですね。意味が無いというのは1968年に、サイエンスという雑誌にハーディンという生物学者が「コモンズの悲劇」という論説を書くんですね。それは中世のイギリスの牧羊地を例にとって、皆が勝手に羊を連れて、草を食べて駄目になってしまうんですが、Ruins for allという結論を出すんですね。そういった勝手に羊を連れて行ってというのは、コモンズじゃないんですね。コモンズというのは歴史的に、非常に込み入って、テーマによってそれぞれ違って、そこに住む人達の全生命がかかって、大事に皆で管理したりしてきたものですね。勝手にやっているのは、決してコモンズじゃないんですね。ところが、その論説を悪用したハロルド・デムセッツというフリードマンのお弟子さんがいたんですね。シカゴ大学の経済学部はフリードマンが教授だったんですが、フリードマンの子分は絶対入れないと,教授会で決めていた、時々フリードマン以外の人がフリードマンと一緒に票を入れると、「いやぁ、自分は何か悪いことをした」と笑っていたんですが。コモンズといったよう所有関係がはっきりしないのは必ずおかしくなると。それで、私有制を徹底しろと、そういう思想を展開するわけですね。それでレーガン、サッチャー、日本では中曽根といったような人達がそれをまともに受けてですね、いわゆる民営化。全てプライベートの責任でという悪い流れを作った。日本ではよくコモンズの例で出されるのが、満濃池なんですね。満濃池というのは、讃岐にある日本で最大の灌漑ため池です。7世紀に作られたんですけど、あまりにも大きくてすぐに壊れてしまったんです。たまたま讃岐の生まれの空海が留学僧として長安に行った.そこで,スリランカの灌漑ため池の農法を学んで帰ってきたんですね。スリランカは讃岐と全く同じような、年に二回モンスーンで、あとは全く雨が降らない。讃岐は年に一回ですけど。ため池のネットワークを作って素晴らしい農業を展開したんですね。紀元前二世紀から三世紀位に、世界最高の水利文明を築いた。その基礎がため池灌漑。そのため池灌漑は、コモンズとして皆で協力して、大事に守る。それを空海が学んで帰ってきて、朝廷に願い出て、別当という職をもらって、そして満濃池の大修復をするんですけれども。それは今でも残っています。日本で最大の灌漑ため池です。それは構造的に非常に優れている。同時に、コモンズとして使ってきた.それが世界の学会でコモンズの問題を議論するときに、一番理想的な社会的共通資本の管理のあり方とされています。小繋のケースは最悪の使い方という、非常にコントラストがあります。多分その基礎にある仏教の考え方があるのではないかなと。

山岡:
 世界では、コモンズというときに、宗教的な背景というのが入った上でお話するケースがあるんですか。

宇沢:
  世界の経済学者が集まって、ナイロビで。経済学者としてどう対応するかという研究集会があったんですね。そのときに、冒頭の論文が”The Selling of the Commons”「売りに出されたコモンズ」聖なるものを売りに出すという。ヨーロッパの伝統的なあり方が、個人の所有を中心として、土地を勝手に使うと、それに対して強い反発をしました。実は、その論文を読んだのは,全世界のキリスト教関係の団体が作った地球環境問題研究所の指導的な方でしした。アメリカン・インディアンと呼ばれた先住民族に伝統的なコモンズとしての管理の仕方を例にあげて,コモンズのことを説明して。それは土地を大事にして、皆で守っていく。白人は土地を儲けの対象としている。白人は自分の母親でも儲けの対象としている。その原点を探ってみると近代合理主義、デカルトの時代のルネッサンス。それは人間の解放だったけど、自然の破壊だったという爆弾的な論文でした。その一番の原点はキリスト教だ。自然を利用するものとして。アメリカン・インディアンと同じように,仏教的な視点というのは大切なものです。

山岡:
日本は、140年前の明治維新から近代化の道を走ってきたわけですが、この近代というのは一体何だったのか、根底から問い直すようなお話が先程から次々出ています。田中先生。連とか、講とか、そういった公でもない私でもないそういった中間的な集団を率いていくリーダーというのはどういう役割を果たして、そしてそのリーダーはどういう風に選ばれてきたのでしょうか。

田中:
 これは難しい問題で、ムラの場合にはもちろん名主がいるわけなんですが、まずリーダーの考え方が私達の考え方と違うんですよね。リーダーって一人じゃないんです。例えば、ムラの場合には村方三役といいまして、必ず三人いるんですね。庄屋、名主というのは、これは関西と関東で違うだけなんですが、あと年寄、肝煎、百姓代などです。とにかくトップは三人、一人じゃない。三人ていうのは面白いですよね。二人だったら分裂してしまいます。三人置くことによって、お互いに見張っている状態、牽制しあえる状態になるんです。それから町の行政、これもトップは三人です。江戸でも江戸の町年寄は三人なんです。日本橋の高島屋の裏から向かい側に三軒の町年寄がいたんです。一番上に町年寄がいて、それから町名主そして、大家さん達です。誰か一人が選ばれて率いていくということはあまり見られません。後に村長だとか町長が生まれます。この村長や町長には「長」がつきますが、江戸時代には「長」のつく立場の人が存在しないので、そういう名称すらありません。組や講についてはリーダーはいても意味がないんじゃないかと思います。
先程の宇沢先生の満濃池で思い出したのが芭蕉のことなんですが、芭蕉は上水道の方で組織を作ったんですね。上水道は江戸時代が始まってすぐ、あるいは直前あたりからありますので、それ自体が珍しいというわけではありません。上水道は作る作らないではなくて、出来上がってから誰が掃除をするのか、という管理が非常に重要です。水道ですから、水を飲むわけですので、管理が非常に重要になります。そうすると、掃除をする人達が必要で、これはコミュニティーを組織しなければならない。これをやった最初の人が芭蕉です。こういう人が、俳諧の連の組織化をしていくわけなんで、宗教的な組織化であったり、文明の組織化、文化の上の組織化ですね、そういう風なものと、実質的な上での組織化っていうのは、それほど離れたものではなかったような気がします。そうしますと、こういうような人達が、ある意味で一時的にリーダーをしている、という様子が浮かび上がってくるんです。ある組織でずっと同じ人がリーダーを務めているということは、あまりないと思います。先程の名主は別ですよ。先程の町年寄の場合にも決まった家の人達ですので、それは固定されているんですが、どちらかというとこれは行政の方の話ですね。さきほどいった講とか組とか、これは行政ではありません。生活の方の話です。生活の方の話というと、特にリーダーが決まらないということになっていまして。例えば、有名なのが一揆ですね。一揆を組織するときにサインをするんですね。署名をするときに、もし右から左に書いていくと、一番最初の人がリーダーだって分かっちゃいますね。ですから、傘の形にするんです。丸く書くんです。丸く書くと、どこが最初か分かりませんよね。そういう風にして、リーダーを隠すということなんで、このリーダーを隠すということの中に、一揆だから、というのはもちろんあると思うんですが、私はもうちょっと深い理由があるような気がしている。リーダーを立てない、という精神的な何かがあるんじゃないかと。そうすると、それは一体組織としてどういう風になるんだろう。芭蕉が活躍していた俳諧の場合には、リーダーのことを宗匠といいまして、宗匠が俳諧のグループにいるときに、「率いていく」という率い方はしません。宗匠は、一人ひとりがどんな句を詠んでいるか、をずーっと見ながら、ちょっと何かをいうだけです。俳諧というのは誰かが五・七・五を作ったら、次の人が七・七を詠んで、またさらに別の人が五・七・五をつけていくんですね。これをつけ合いというんですが、つけ合いをするときには鉄則があって、前の人と絶対同じにならない。それまで何十と続いてきたとしても、それまでの全部の句と同じにならないようにしなければならない。ちょっとでも非常に近いものが出てしまうと、「戻る」という。戻っちゃいけないんですね。ですから、人と同じにならないというのは、組織上とても大事なことです。それから、人と離れすぎないということも組織上大事なことで、そこを見ているのが、どうも宗匠なんです。そうすると、日本的なリーダーのあり様というのがなんとなく浮かび上がってくるんですね。人がそれぞれ持っている能力をいかに発揮しながら別々の能力を発揮していくか。リーダーのような立場の人がそれを見ながら組み合わせているのではないか、と私は思います。

山岡:
 人材のコーディネートの妙を感じますね。必ずしも、一人の人間が強い力で引っ張っていくのではなくて、入れ替わっていく。これは宇沢先生、例えば教育の現場に置き換えてですね、そういうことで何かを伝えていくというのは、教育の中で行われてきた例があるんでしょうか。

宇沢:
  私は、ちょっと教育という問題とはずれるかもしれないんですけど、成田の調停を頼まれてやってまして、十年位で終わって、まだ不安定なんですが。成田に入って最初に気がついたのは、実は成田の農村のコモンズが、空港を作るという計画によって完全に壊されてしまった。それに対して,若い農民たちが中心になって,全国から、いわゆる支援と称する若者たちが集まって、大きな運動になっていくわけです。そのとき,最初にリーダーの一人がこういうことをいったんですね。俺たちは社会主義革命には全く興味がないと。俺たちは、自分の土地を守って百姓を続けたいんだと。その彼の言葉に、私は成田の本質があるという感じがしました。
 成田でうってきた農民、学生労働者は大体百人近くいました.中には十代で入って三十年以上も戦ってきた人もいるんですね。そういう人達の生き様はどうするか。それで、コモンズの再生を考えたんですね。反対同盟を説得して、三里塚農社というのを立ち上げようとしました。英語でいうと、Sanrizuka Agricultural Commons です。社という言葉はもともと耕すという意味だったんですね。それが、時代がくだって、耕作の神様を意味するようになった。その神様を奉る場所で、社という言葉になるんですね。それから社に皆が集まって、相談するという。皆で相談して決めていくという。時間をかけて。それが会社だとか、結社とか。そのころ,私は国連大学で、特任教授というのをやってました。世界中から博士論文を書いている段階の学生を十何人呼んで、一年間日本で指導する。その中で、ブラジルから来た学生で、法律が専門でしたけど、こういうテーマをやっていた。それは、アメリカの製薬会社が凄く儲けている。大体新薬開発のかなりの部分がこういう手法を使っている。アマゾンの熱帯雨林に住んでいる人を訪ねて行ってですね、そこのシャーマン,Medicine Manを訪ねる。そして、熱帯雨林の中の木とか鉱物とか小動物とかが、どういう症状にきくかの知識を聞く.一人で五千種類位知っている。そのサンプルを持って帰って、ラボラトリーで実験して。最近評判になっている新薬というのは、大体そういう風に作られているわけです。ところが、集落の人達は貧しい。ブラジル政府が思い立って、アメリカの製薬会社と交渉して、Medicine Manに特許料を払うことにした。そうすると、そのMedicine Manが一斉に受け取りを拒否したんですね。自分の知識が人類の幸福のために使われる。これほど素晴らしいことはないと。それをお金に換えるというあさましいことはしたくないという理由でした。そこで、ブラジル政府が機構を作って、ロイヤリティーをそこに入れるようにしたんですね。ところが、そのロイヤリティーの収入を、機構の役人が全部使っちゃったんです。その学生は国に帰って就職できなくて苦労した。大分前ですけど、彼が殺されたっていう。彼は日本にいるときにフランスの女性と結婚して、赤ちゃんも生まれて、凄くハッピーだったんですが。殺された様子はよく分からない。

山岡:
 三里塚のお話は、今日宇沢先生にお目にかかったらぜひお伺いしたいお話だったんですけれども、個人的にお聞きしたいことが一つあるんです。あのときに後藤田さんと宇沢先生との一対一の話し合いで、宇沢先生が仲介役になることが決まったと漏れ聞いておるんですけれども、後藤田さんのスタンスというのはですね、自民党の運輸族はあの頃空港を作りたくて、強制執行でも何度もやってしまえというお話だったですよね。それに対して後藤田さんはどういうお立場だったんですか。

宇沢:
 実は最近、毎日新聞にこのことを書いたんですよ。後藤田さんが亡くなられて、後藤田さんの名誉を守るというのがあって、それまでは口外すると危なかったんですが、こういう話なんですね。私は運輸省と反対同盟と両方から調停して欲しいと。かなりシリアスに。それで隅谷調査団というのを作って始めたんですが、ただそれを始めるときに、私はとっても成田の問題には関われないと思って。だんだんおかしくなって、私は後藤田さんのところに行ったんですね。後藤田さんはたしか官房長官をされていたのかな。偉い地位にあったんですが、僕がどういう用件で来たかというのをちゃんと知ってるんですね。内務官僚出身ですから。それで、最初にこういうことをいわれたんですね。「宇沢君、成田の問題は、警察も軍隊も使わないで解決してくれ」。後藤田さんというのは、徳島出身の方で、言葉は非常にソフトな方なんですけどもね。僕はとってもそういうことはできないといったんです。すると後藤田さんは、「自民党の中に、成田の問題は国の威信にかかわる問題だから、軍隊を投入して解決するという極めて厳しい意見がある。それはもう押さえきれない状況だ」。後藤田さんはつづけて言われた.「これまで、警察や運輸省からいわれてやってきた。それによって、農民を数多く傷つけて,その上,地域を崩壊させてしまった。、今度運輸省がやれといったら,運輸省がやると。そういう厳しい言葉です。僕はやっぱり断りきれなくなって。反対同盟はこういう条件を出したんですね。成田の問題について、政府、公団は暴力的に非民主的やってきた。第一に、それを正式に認めて欲しい、地域に謝罪して欲しい。第二が、二期工事の白紙撤回。第三はね、今後のこと。地域の皆が集まって、理性的なコンセンサスを形成して事を進めると。この三つをね閣議了承でやれと。ちょうど宮沢さんが総理大臣で。宮沢さんは理性的な方でね、そういう危ないことは一切されない。しばらくして、後藤田さんから急に来てくれと。そのとき宮沢さんがヨーロッパに行かれていて、後藤田さんが総理代行をされていた。そして、君の案にOKを出すといわれた。次の日に運輸省の責任者たちを呼んでOKを出された。そのときに僕は後藤田さんにこういうことをいったんです。三里塚農社を立ち上げると。でも、なかなか出来なくてね。

山岡:
 三里塚農社は今はどういう状態なんですか。

宇沢:
 ちょっとね、壊滅状態なんですよ。その後に隅谷調査団は結論を出したんですけど、なかなかうまくいかなくてね。公団の総裁は非常に人望が厚い方なんですが、その後株式会社になってからも社長をされていたんですが、突然解任されたんですよ。そして、これに全く関係のない方が社長になって、地元の方との信頼関係も完全に壊れちゃってるんですね。

山岡:
 やはり、成田という元々農民の方のコモンズのあったところが時代と共にというか、近代化の流れの中で、国家権力やそういったところにぶつかったときに、どういう風なことが起きていくかというのを、宇沢先生は身をもって体験されたのですね。話を現代のほうに引っ張っていきたいと思います。加藤さんにちょっとお尋ねしたいんですけど。今、田中先生が江戸時代の人と人の助け合いのネットワークや組織のことについてお話されましたけども、実はそういう風なことは江戸時代に終わったわけではなくて、あるいは戦後全部消えたわけではなくて、私達の一種精神の尾てい骨のようにですね、あることにはあるんですね。例えば、長野の私の友人が医者をしています村の方では、いまだに若衆組みたいなものがありまして、例えば大雨で土手が決壊しそうになったら、自分達で土嚢を積んだり、あるいは祭りになると、非常に賑やかにしている。実は、その中の一つの例として、さきほど控え室で加藤さんからお聞きした、沖縄の国頭村の方なんでしょうか。本島の北の方にですね、共同売店というのがあるそうですね。これは集落の人達が自分達でお金を出して自分達で管理しているという売店。沖縄にも当然スーパーですとかコンビニがどんどん進出しています。しかし、村落の人達が自分達でやった自主自立的な共同売店というのが機能しているというのを知りましてですね。加藤さん、どういう風な形態で運営されているのかご存知でしたら少し・・・・。

加藤:
 実は、私もよく知らないんですがね。少し前に沖縄大学の宮城さんという先生から聞いた話なんですけれども、共同売店という名前からして、そんなに古いものではないですね。第二次世界大戦後に出来たようです。さっき田中さんがおっしゃったように小さい単位で、町とか村というよりももっと小さい単位で、そこの住民が出資して、直接自分達で、それこそ三役といったような意思決定をするメンバーも出してやる直営の形式とか、あるいは、自分達は直接マネジメントはしないけれども、誰かに委託して請負をするというように、色んな形があるようです。今でいえばコンビニ、昔でいえばよろず屋みたいなものなんでしょうか。戦後、特に沖縄ですから、インフラが何も無い。ですから集落ごとに、生活物資が置いてあるような店を地元が経営する。今でもそれが百数十あるようです。今やコンビニがどこにでも日本中にある時代ですから、物を買う場所としては役割はかなり落ちてきたようです。それから、なかなかうまくマネジメントできなくて、数は減っているようですけれど、それでもそこが一つの集落の中での中心というか、地域の人がそこで色々コミュニケーションを行って、場合によっては相談をして、もちろん物も買うし、というように寄り合いの場所になっている。やはり、いまや物を買うという機能は減ってきたけれども、人が集まってきてコミュニケーションするというのはあるし、それを維持していきたいという集落単位での意思は非常に強くはたらいている。だから、割合減らずに残っている。ですから、やっぱりそういうものは求められているということなんでしょうね。共同売店というもの自体の歴史は浅いわけですけれど、やはり何かの必要があり、あるいはそれ以前にそういう伝統があったから、割合、戦後にそういうものがさーっとできてきたという風に思いますし、同じようなコミュニティ単位の意思決定の仕方とか、あるいは相互扶助の機能をもった場所というのは、この共同売店の例だけじゃなくて、東北にも色んなところにあるんだと思います。今日は、実は実際にそういうものを体験、運営、あるいは研究されている方に来ていただこうと思ったんですけれども、来ていただけなかったので、代わりにご紹介しました。

山岡:
 沖縄で今共同売店が生き残っているのは、高齢化の問題とかなり密接に結びついているのかなと思います。お年寄りにとって、恐らく歩いて手軽に何か買いに行けるというのは、馴染みのある小さなお店。私は今東京の下町の雑然とした街で暮らしていますが、やはり地べたにすぐお店があるというのは、お年寄りが生活する上で非常に重要なポイントなのかな、と感じております。老後の生活ということで田中先生にお伺いしたいんですが、江戸時代の人はどんな風に歳をとったのでしょうか。現代では歳をとれば年金をもらって生活していくのをごく当たり前のように感じているんですが、江戸の庶民は歳をとっていって、その後誰にどう頼ったのか頼らないのか、そのあたりのお話を。

田中:
 基本的には、頼らないと思います。ある部分については頼っていたと思いますけど、例えば絵を見ていますと、よくお年寄りが外を歩いているんですね。一人で歩いているということが無くて、子供をおぶっていたりするんです。家の中では子守の役割を果たしていたということが、絵を見ていてよく分かります。何らかの役割を果たしているということがあって、そういうのを私達のいうような年金をあげないといけないとか、福祉のシステムに組み込まなければならないとか、従属人口として良いのかどうか。そこが私はちょっと疑問なんですね。子供は育てなければならない。扶養する。歳をとると、また扶養すると、私達はワンパターンに考えています。そこの個人差が大きい。子供はともかくとして。高齢者は個人差が大きいんです。一概に60歳とか65歳などでぱっと切って、あとはお金をあげますよっていう話で良いんだろうか、と思ってしまうんです。江戸時代は五十代で亡くなる方もいらっしゃるんですけれども、特に農村では必ず何か仕事がありますから、仕事が無くなるというのはありえないわけですよね。もちろん町だってそうですよ。どんなところだって人手不足です。それから先程いいましたように、家の中というのはただ消費するだけではなくて、生産の場なんですね。いくらでも仕事があるんです。そういう意味で、いくらでも仕事があるその仕事を、とにかくこなせるうちはこなしていられる状況をどうやって作れるだろうかっていうのは、むしろ私達の課題で、お金をどうやって渡せるかっていう話じゃないんじゃないかって思うんですね。どうしても子守というと家庭の中の話とだと私たちは思ってしまうんですけど、彼らにとっては生産の場での子守なんです。つまり、子供は家だからいますが、そこは会社でもあるんです。会社の中に子供がいるときにどうするか、そういうような中での高齢者の働き方とか働くチャンス、働く環境とか、むしろそっちを考える方が先なんじゃないかな、と思います。それから、高齢者に関わらず、色々な不自由がありますよね。若くても、身体的な不自由が出てくることもあります。例えば、そのケースなんですが、江戸時代に大変有名な当道座という座がありました。盲人の組織です。 盲人達は、自らを組織化していました。そして、ある場合には大変お金持ちでした。江戸時代でもちょっとした差別用語なんですが、座頭貸しという言葉がありまして、盲人が高利貸しになるのです。お金がありすぎるからなんです。どうしてそういうことになるのかというと、そこまではよく分からないんですが、職業の独占です。例えば、灸とか按摩とか音曲のことは盲人組織が独占しているので、盲人でない人は介入できないんです。仕事を独占しているから、当然そこにお金が集まります。ヒエラルキーが非常に厳しく、上がまたお金をどんどん吸収していました。頂点に検校という人がいて、これが絶大な権力を持っている。善くも悪しくもですが、とにかくそこに入ると修行もできるし、技能を身に付けることができるし、仕事を分けてもらえるので、仕事が無くなるということがないんです。ある意味での相互扶助組織です。身体に不自由を抱えている人達の相互扶助組織です。そのようなものが色々とあって、例えば私達が格差社会ということで問題を抱えていますけれども、江戸時代はもっとひどい格差社会です。そこでも職業の独占ということが行われます。「えた」という言葉があります。「えた」という人達は職業の独占組織なんです。彼らも大変お金を持っているという側面があって、浅草に広大な浅草弾左衛門屋敷という所があり、そこが一つの町になっていて、えた達が住んでいるんですね。この人達は、皮革その他、履物、ろうそくの灯芯の仕事も独占をしていました。いくつかの独占をしていて、例えば動物の皮を剥ぐ。江戸時代は肉は食べませんでしたから、屠殺はないんです。動物を殺して食べることはしないんです。ですから、彼らの仕事は何らかの別の原因で死んでしまった動物の皮を剥ぐ高等技術です。ですから、伝承されてきている技能です。職人です。高度な職人であって、しかも必需品だったので、必ず必要とされた人達です。戦国時代からずっと必要とされていた人達で、必要とされていたから、幕府もその中に押さえ込んだ。そこから逃れられないようにしたというのもありますが、逆にいうと独占していたということもあるんですね。この方達もお金を貸していたりします。金融までするわけですね。このような独占をしているということは、農民が死んだ牛や馬の皮を剥ごうとするとこれは規則違反になりますので、裁判を起こすことができました。それで、農民は負けます。そういうような、きちっとした法律に基づいて保護されていた。このような仕事を基準にした組織というのがあった。今いったのは場所に特定されているとは限らない、仕事でつながっている集まり。あるいは、ある場合には格差だったり、身体的な不自由さであったりということになります。そのような意味では、排他的です。排他的なんですが、相互扶助ですから、相互扶助的なものを取り入れようとしたときに、排他的になるのはやむを得ない。これは自由経済とは対立するようなところだと思うんです。高齢者の問題に戻りますけれども、高齢の方が年金を受けるのとは別の組織化というのが私はありうるのではないかと思いますし、お金ではなくて仕事とか社会性というところに注目した様々な組織がこれから出てきても良いのではないか。これは任意団体といって良いと思いますが、そういう組織が出てきて、ある意味でそれが保護されても良いのではないか。つまり排他的に。ある年齢以下の人がそこで働いてはならないとか。そういうようなことがあっても良いのではないか、という気がしています。

山岡:
 なるほど。高齢者だからといって隠居してしまうのではなくて、やはり働き続けられる環境の方がむしろ福祉といいますか、幸せなのではないかと思うんですね。そうはいってもなかなか今の世の中、例えば会社に勤めている方は、「さぁ、じゃあこれから地域のコミュニティの中に入って何かやるぞ」と力こぶを入れて入っていくとですね。どうもそこに見えない壁があってなかなか入れない。あるいは濡れ落ち葉なんていう言葉がありましてですね、お父さんが退職した後に、塗れた葉っぱのように奥さんの肩のところにとまっているような、そういう風な生活を余儀なくされるというケースもある。宇沢先生、今の田中先生のお話を聞かれて、今後高齢者をどういう風に私達が支えあっていけばいいか、何が大切だとお考えですか。

宇沢:
 当事者ですからね、なかなか言いにくいんだけど。でも、歳をとっても働くことができる限り働くという生き様は良いですよね。田中康夫さんが長野県の知事になられて、最初にやられたのが、託児所の担当者を年寄りにしたということなんですね。それから、そういう組織を立ち上げるという人に、無条件で一千万円を出して。それは大変な成功だったんですね。年寄りにとってみるとね、家にいても仕事がないから、子供の面倒を見る。子供もおじいさん、おばあさんとうまくやってましたね。それに似たような制度が、実はイギリスにあって、national help serviceといいます。一般医というのがあって、general practitioner。それは伝統的なファミリードクターの制度を大体そのまま継いでるんですね。NHSは1958年頃できました。私もしばらくケンブリッジにいたんですけど、大体百件位お医者さんのリストがあって。一年間登録するんですね。何かあるとそこへ。そのお医者さんに診てもらわないと、病院に行けないんですね。病院に直接は行けない。我々が登録していたお医者さんというのは、昔ボートの選手で、一橋との試合で日本に行ったという話ばかりしてくる。診察室にオールなんか飾ってあってね。大丈夫かな、という。子供を見て、これはシリアスなケースかどうかっていうのを判断している。そうじゃない場合は、紅茶を飲ませとけ、と。親にとって一番大事なんですね。子供が熱を出したり、おかしいときに、シリアスかどうかを判断してもらうのは。当時変なことになっていてね。病院に入院するのに二年か三年待たなきゃいけない。それが、NHS崩壊の原因になるんですけどね。イギリスのナショナル・ヘルス・サービスの制度は、1942年にベバレッジという人が作った。有名なベバレッジ報告というのがあるんですね。実はそれが、戦後の社会保障制度の一番の基礎を作るんですね。日本の介護保険制度も、基本的にはベバレッジのプランを踏襲しているんですね。このベバレッジの制度が作られたのは1942年で、当時の首相はチャーチル。一番激しい爆撃も始まっているとき。そのときチャーチルが、戦後の荒廃したイギリスの社会をどうしたら良いか、というブループリントを作るように、大蔵省の中にベバレッジを委員長とする委員会を作ったんです。実はその委員会には、ケインズのような当時最高の経済学者がいました。ベバレッジはケインズより四歳年上ですが、作るわけです。それが、ベバリッジ報告書。それに基づいて、戦後社会保障制度が作られるわけです。その一番のコアがナショナル・ヘルス・サービス。ベバレッジ委員会の有名な「揺りかごから墓場まで」、つまり生まれたときから死ぬまで、人一人の生き様を国が保障しよう、と。責任を持ってそういう制度を作ると。別にただでっていうんじゃないです。それを全部税金でまかなうと。実はベバレッジの報告書ができて、そうしたら委員会のベバレッジ以外の委員は、署名を拒否したんですね。あまりにも過激な制度で。そこで、ベバレッジの個人の名前でその報告書が出版されたんですね。そうしたら、八時間で七万部売れて、一年間で六十二万部売れた。大変なベストセラーになった。色んなアンケートでも、ベバレッジプランというのは、ほとんどのイギリス人が知っている。そういう一般の支持を背景にして、戦後作られたんですね。ところが、イギリスの大蔵省は日本の大蔵省より厳しいところで、ナショナル・ヘルス・サービスを作る段階で、政府の職員がベバレッジと接触することを禁止するという通達まで出たんですね。ナショナル・ヘルス・サービスというのは理想的な制度でした。イギリスの伝統的な制度と、近代的な制度を組み合わせたんですけど、大蔵省は完全にさぼってですね。新しい病院は作らせない、投資はしない。それから医師の給料を低く決めたんですね。トップのコンサルタントは、大体中央官庁の局長よりちょっと少ない。年々大量のお医者さんが、英語の話せるアメリカ、カナダ、オーストラリアに逃げて行くわけですね。私たちが行ったときは、ちょうどそれが始まった頃だったんですね。それが段々ひどくなったときにですね。サッチャーのときに徹底的に壊していったんですね。数は増やさない、給料は低く、病院を新しく作らない。ブレアさんになって、完全にイギリスの医療が崩壊したと。それで、五年間かけて医療費を一倍半にするということを。ところが五年経っても、依然として医者のモラルは回復しないし、医師に対する信頼感も。ですから、小泉さんが医療費抑制と、市場原理主義的な政策をやってますけど、日本の医療は今ほとんど崩壊状態にあります。日本の診療報酬制度では、子供の注射は点数が半分になるんです。それは、子供の注射は分量が半分で済むという。子供の注射は大変なんですよ。

山岡:
 医療費のお話になったので、私もちょっと補足させていただきますと、大体日本の国民医療費が高い高いといわれていますけども、国際比較しますと、GDP比率で一番高いのがアメリカで、大体15%ちょっと位でしょうか。そして、イギリスが一時ブレア政権の初期の頃に、先進国の中でもかなり少ない医療費になって、日本より少ない位までいって約7%だったんですけど、つい最近のデータですと、8%を越えました。OECDの先進国の中で、今一番低いのは日本で、大体8%ギリギリくらい。なおかつ、国民一人当たりの負担額はどうなのか、というと、日本が恐らく一番負担しているといわれています。冒頭に申し上げましたが、マイケル・ムーアのシッコという映画は、我々が空気のように感じている国民皆保険制度が、制度としてのコモンズ、あるいは制度としての社会的共通資本の根幹を支えているということを再認識させるモノですね。

宇沢:
今のお話の関係で、日本の医療費は三十三兆円。実はパチンコ産業の規模が大体三十兆なんですね。これを外国から来た研究者によくいうんですが、全然通じない。外国にパチンコはないんですね。あれ程みっともない話はない。医師の待遇は悪いし。日本のお医者さんは、なかなか外国に逃げられないんですね。どうしても言葉が障壁になって。そういうことで医療費抑制というのは信じられない。教育費も同じですね。日本は最低の水準で、それをもっと抑制するという。小泉さんの市場原理主義的な改革というのは、日本を壊しますね。一番問題は、郵政民営化。あれはどういう風になるかというと、郵貯、簡保、資金を合わせると、大体五百兆位になるんじゃないかな。その管理に、アメリカのファンドがかなり入ってくるわけです。そうするとどうなるかというと、アメリカの方が国債の金利がずっと高いんですね。今までずっと大蔵省の管理で抑えられていたんですけど、それが自由になる。長年に渡ってアメリカ政府が郵政民営化を迫ってきたのは、それが狙いだったんですね。どういうことになるかというと、日本の国債、値段が下がります。そうすると、銀行は大変厳しい制限がありますから、信用供与を大幅に減らさないといけない。そうすると、特に地方は非常に大きなダメージ。郵貯銀行のあの巨大な組織で、地方の貸し出しは完全に独占される。地域間格差というのは大変極端な形になって。それはもう目に見えていますね。

山岡:
 前回のフォーラムで、公的年金三種類の積み立て金が大体二百五十兆円位で、これがどういう風に運営されているかとなったとき、ギャンブル的な投資が行われているという話がでました。我々からはほとんどそれが見えない。年金の問題を話して、つくづく自分が自分の年金のことをいかによく知らないかということを先月感じまして、そのためにはまず厚労省が全部データを一回白日のもとにさらして、皆でそれを素材にして議論できるような場が必要なんだろうな、と思いました。田中先生、いわゆる長屋の生活というのが江戸時代の庶民の一つとしてあったと思うんですけれども、こんにちの分譲マンションというのはある意味では現代の長屋であろうなと思うんですが、長屋っていうのは、大家さんがいて店子がいたと。ところが分譲マンションというのは一人ひとりが大家であり、一人ひとりが店子であるという非常に変わった形式なんですね。この形式の中で、かつての江戸の長屋が持っていたようなお互いが支えあうようなものは果たしてできるのかな、どうやったらできるのかな、と個人的に考えています。そのへんのアドバイスをお願いします。

田中:
 できるのではないかと思うのですが、まずは建物の構造でそれができないようになっている。
例えば、ドア。ドアって閉めるか開けるかどっちかしかないんですね。引き戸のことを想像してもらえると分かるんですが、引き戸って中途半端ができるんです。中途半端というのは人間関係で大事なことで、引き戸って開けてあるのか閉めてあるのかよく分からないんですね。「あ、開いてるな」と思ったら近所の人が家に入ってくる。自分の家を想像して欲しいんですが、ほとんどの方の家はドアじゃないかと思います。ドアの場合知っている人が入って来たら、その知っている人とどこで会話をしますか。ドアを閉めますね。そこで何か用事を、二人とも多分立ったままでします。それで、ちょっと立ったままじゃ話が進まないなってなったら、「どうぞ、家の中へお上がりください」と家の中にいれますよね。立ったままか、家の中に入れるかどっちかしかないです。中途半端がないです。ところが、あがりかまちや、縁側などがあった時代には、そこにすわります。それが中途半端な状態で、家の中に入っているのか入っていないのかよく分からない状態です。あがりかまちに座っている人は家の中のことがなんとなく分かるんです。ところが詳細は分からないんです。これも中途半端なんですね。つまりプライバシーを侵害する程ではなくて、その必要もないんだけれども、何か子供が泣いているとかお年寄りが病気しているとかそういう雰囲気はちゃんと伝わる。狭い家であればある程、伝わってきますよね。そうすると家の構造そのものが中途半端な人間関係を作るのにちょうど良い状況があって、これがマンションであれば無理なんじゃないかな。一人ひとりが孤立するように戦後の社会を作ってきた一つの形が、はっきりと住宅の形として表れている気がするんですね。大家さんがいるかどうかということよりもそちらの方が重要で、これが家の中にまで入り込んでます。子供部屋というあってはならないものが存在するんですが、ああいうものを必要だと誰が考えたんだろうと思います。子供は大人との関係に苦しみながら育つものですね。苦しみながら育つことではじめて人間関係がどういうものかわかるわけですよね。自分の場所を自分で探すわけです。部屋がないから。六畳一間のどこにいれば良いのかっていうのを自分で考えるわけです。そういう自分の部屋に入らない子供と親は、どこかで見てるんです。そういう中途半端な人間関係をどうやって取り戻すかっていうことは重要だけど、非常に難しい問題で。まずはマンションからドアを無くす。無理なことかもしれませんけど。無理だから今、コーポラティブハウジングとか共同の場所を作るという話になっていますが、それでうまくいくのかどうかよくわからないんです。

山岡:
 会場の皆さんから、是非この際、宇沢先生と田中先生がいらっしゃいますので、何か質問をお受けしたいと思うんですけれども。

発言者1:
 田中先生にお尋ねします。町の中でリーダーは一人ではなくて三人だというお話がとても印象的でした。しかし、江戸時代の上を見ると、殿様は三人じゃなくて一人だと思うんですね。そうすると、町の三人でやるというのは、町の人々の知恵なのか、権力者の悪知恵なのか、どっちなんだろうかと。

田中:
 発祥が何かというのは分からないんですが、江戸の町年寄については幕府がどうも決めたらしいです。しかし、ムラの場合はそうではないので、自然に決まった。つまり、最初からそうではなかった。三人の体制が徐々にできてきたわけですね。ところが、最初から村長さんがいたのか、というと村長さんがいたというわけでもないんですね。村落の場合には、誰かが決めるようなことではなかったということと、その人達が何でいるのかというと、例えば年貢の割合の交渉役として存在するんです。私が先ほどいったのは、三人という体制を誰が決めたか、ということが大事なのではなくて、何のためにいるのかが大事だということなんですね。つまり、引っ張っていくためにいるのかっていうことを考えてみますと、どうも交渉役なんです。つまり、間にいて調整をする役。そういうことだと考えると、権力者が決めたかどうかというのはあまり大きな問題じゃないんじゃないかな、という気がします。

発言者2:
 田中先生に教えて頂きたいんですけれども、文化の問題というのは心の問題だと思っております。それは、環境問題に比べて、非常に深刻な状態にあるんじゃないかな、と思っております。というのは、環境問題というのは地球温暖化という問題が設定されたわけであって、それをどう解決するかということだと思うんですが、文化の問題や福祉の問題というのは、なかなか問題の構造が明らかにならないという中で、田中先生がおっしゃられたように、心の問題で自分自身が自分自身の損得だけじゃなくて、他人のためにも、という心を考えたときに、コミュニティや仏教思想が相手にあったときには解決できたと思うんですが、これからの日本で、こういう心の問題を解決していく上で、何かご教授いただけたら、と思います。

田中:
 一ついえるのは、江戸時代にも自分勝手な人はいくらでもいたと思うんですね。だけれども、現実がそれを許さないわけです。実は私達の社会も同じなんじゃないかと思います。つまり、現実を知れば好きなようにはしていられないはずです。先程の木の伐採の話もそうです。水を汚すか汚さないかという水の管理の話もそうですが、現実を知るというのはどういうことかといいますと、非常に短い時間、自分が生きている時間の中の単位で考えて、この一年でどれだけ利益が上がるかということを考えて行動した場合に、そのことがいつどのように自分に返ってくるのか、ということですね。江戸時代の場合には、農作業ができなくなったら自分も生きられなくなって、すぐに自分に返ってきます。私達の場合は、システムが複雑すぎるから見えにくくなっているんですが、結局同じことなんです。自分に返ってくるんです。ただ知らないだけです。分かりにくいだけ。やはり、心の問題として、人のために生きましょうなんていっているわけではなくて、自分のためにで良いんですけれども、自分にどういう形で返ってくるかっていう現実を、私たちはもうちょっとちゃんと見れば良いのではないかと。心の問題というのは、私は非常に現実的な問題だと思っております。

発言者3:
 昔々、宇沢先生の『自動車の社会的費用』を読ませていただいて、それで研究者になりたいと思ったんですけれども。私は今行政の監査の研究をやっているんですけれども、やはり今おっしゃっておられるような問題があって、行政がどんなに頑張ってもできることとできないことがあるというのは、重々。そうはいっても、今の行政のシステムの中でチェック・アンド・バランスというのは必要な機能かな、という風に思っているんですけれども。その点について、宇沢先生がチェック・アンド・バランスということについて何かご意見があれば。あるいは、それを国として全体としてやっていくのか、それとも自治体として積み上げていった方がが良いのか、という視点でお伺いしたいと思います。

宇沢:
 何もご参考になるようなことはありえません。私自身、今でも科研費をもらって苦労しています。チェック・アンド・バランスが本当に厳しいですね、使い方とか。全てのことについて非常に細かく。
 ちょっと話が違いますけど、アメリカの大学は素晴らしいんですね。例えば、学会なんか行きますね。すると、みんなで食事をしたりする。そのときにいくら払ったかは、記憶で何ドルって書けば良いんです。そういう素晴らしい制度なんですね。試験もそうでしたね。皆、honorable cordというのに最初に「自分はカンニングしません」とサインするんですね。試験監督がいらないんですね。学生が一人ひとり責任を持って。変なことをする学生がいても、それは本人の問題で、基本的には素晴らしい意欲を持っている。

山岡:
 理想的な学校で、信義に基づいてそれぞれが教育をしている。

発言者4:
 今日のテーマが、「福祉」は本当に人を幸せにするのかで、一つはコモンズとか、外の人との関わりがポイントだったと思うんですけど、本当にもっとよく考えてみると、実は私は大家族主義が日本を救うと思っているんですけれども。福祉を金で解決しなくても済む方法とか、人を幸せにするのは、昔小さい頃、まわりにおじいちゃん、おばあちゃん、おじさん、おばさん、あるいはいじめっ子だといって、そういったかかわりの中で、教育であるとか、福祉であるとか、あるいは少子化の問題であるとか、大家族主義が色んな意味で根本的な問題な問題じゃないかと思うんですけど、例えば江戸時代は大家族というのがどうだったのか、あるいは私はユタ州の人と付き合いがあったんですけど、外国でも割とそういうことが幸せとしてあるんじゃないかと思うんですけど、そのへんのところを宇沢先生にちょっとお伺いしたいと思います。

田中:
 大家族っていうのがどの位からかというのが難しいんですが、先程からいっていることは一つあります。家庭は生産の場だったという話です。大家族というのもその前提があったはずなんです。今、生産の場で無くなった家族が大家族になるということが可能なんでしょうか。それに私はちょっと疑問を持っております。しかも、女性も今は生産の場と切り離されて家の中にいるか、もしくは切り離された状態で両方にいるか。つまり働きに出てしまっているか、ということになっていますね。いくら大家族を作っても、家の中に誰もいない時間が非常に長いということが生まれたりする可能性も出てきたりしますね。そういうことを考えると、ただ家族が大きければ良いのかな、という疑問はあります。おっしゃることは良くわかります。例えば子育ての問題を取り上げても、それから老人介護の問題を取り上げても、それはもう大家族の方が能率的で合理的で気持ちに沿ったものをしてあげられるという意味では良いと思います。ただもう一つ必要なのは、今申し上げた、私達は生産と消費というシステムをどうするのか、というのを同時に考えた家族をもう一度考え直さないと無理なんじゃないかな、と思います。

宇沢:
 大家族というのを、私は身をもって経験したことがあるんです。イスラエルのキブツにしばらく行きました。あそこは子供を全部シェアして、食事も。だから、子供の将来も。もともとイスラエルのキブツを作った人達は、19世紀の終わりから20世紀のはじめにかけてイスラエルにやってきた。ロシアの社会主義者の理念をそういう形で貫いた。本で読む限り素晴らしいと思って行ったんですが、中は悲惨ですね。これはだめだと思って。難しい問題じゃないかな、と思いますね。

山岡:
 ありがとうございました。

加藤:
 宇沢さん、田中さん、山岡さん、ありがとうございました。最後に大家族の話が出たわけですけど、先程皆さんのお話の中で出てきたように、家族の中でカバーできることもあるし、できないこともある。コミュニティという言葉は私はあまり好きじゃないんですけど、やっぱりある種の最小単位の生活の場をどう設定するかということが、それが家族であれ、地域であれ、単位が問われているんじゃないかな、と思いながら伺っていました。田中さんがおっしゃった排他的であるということと、相互扶助的であるということはセットだというのは、その通りだと思うんですね。私はよく、田舎と都会を見ていて、うっとうしさとありがたさというのはやっぱりセットで、田舎に行けば、いまや昔話になるにしても、お醤油が足りないと隣に行って借りる。今やそれは町の中ではあり得ない話ですよね。その代わりに、数百円持ってコンビニに行けば醤油が楽に買えるわけですよ。ですから、最初の話に戻れば、お金でケリがつく。あるいは、お金がなければケリがつかない。お金でケリがつくということは、向こうに作り手がいて、全てがマーケット経由になっているというわけですよね。結局、世の中の構成員同士の行き来が極端に少なくなっているということなんですよね。ですから、世の中の構成員同士の行き来ということを我々は忘れるところまできている。「地域格差」という言葉は公共的なサービスの量的な差として捉えられることが多いですが、それは政府ですらマーケットの一つの構成員として、お金を配ることで問題を解決しようという方向性でしか物事を考えていないと、非常に抽象的にいえばそういうことなのではないかと思います。一つ思い出したのですが、『地域に生きる』という本があります。もともとは東北農政局がまとめたレポートをもとにしたもので、今は農文協で出版されています。まさにうっとうしさとありがたさ、というキーワードで色んな地域のコミュニティの実例みたいなものを集めたとっても良い本ですのでご覧になってください。今日のテーマは、構想日本にとっては極めて本質的な問いかけでして、文化とか心とか環境というご質問がありましたけど、私は同じだと思うんですね。水でもエネルギーでも食べ物でも、小さい単位で作って、買ってということよりも、今はどんどん単位を大きくして、それが経済でいうグローバライゼーションなんでしょうけれど。その結果、本当に効率が良くなっているのかというと、そうでもないんですね。一軒一軒が雨水をためて使うのと、それを全部東京湾に流して、遠い所に巨大なダムを作って引いてくるのと、一体どっちが本当に効率的なのかということを考えないといけないのではないか。そうやって考えていくと、小さい単位で小分けにして、その中でまわるようにすればするほど、普通にいわれる経済的な効率というのは落ちる。けれども、非常に時間を長くとって、経済のレベルを超えてもっとマクロで考えると、そっちの方がはるかに効率は良いんじゃないかな、と。そういう視点で物事を議論したり、考えたり、あるいはそれを政策につなげる人は、政治家の中にも官僚の中にも滅多にいないのですが、そういう観点からこのフォーラムを、またやっていきたいと思いますし、また構想日本で考えるときの政策というのは、常にそういう視点を持っていくつもりです。「地産地消」という言葉がよく使われますけど、これは食べ物に限ることではなくて、人でも金でも情報でも、全てに関して地産地消というのを考えていかなければならない時代を迎えていると私は思います。構想日本のプロジェクトとして、金融に関しても地産地消というのを考えた方が良いんじゃないか。これをある種の形で表したのが、バングラデシュのグラミン・バンクですし、日本でもああいうものが実は必要じゃないかという議論を始めています。全てを一つのマーケットで、ということは、実はとっても効率が悪い。まぁそんなことをもうちょっと考えたいな、と思います。ありがとうございました。

宇沢 弘文(うざわ ひろふみ)日本学士院会員・東京大学名誉教授
1928年生まれ。東京大学理学部数学科卒業。シカゴ大学教授、東京大学教授などを経て、東京大学名誉教授、日本学士院会員。1983年文化功労者、1995年米国科学アカデミー客員会員、1997年文化勲章受賞。Econometric SocietyのFellow(終身)。1976年から1977年までEconometric Society会長。著者に『社会的共通資本』(岩波新書)、『ヴェブレン』(岩波書店)、Economic Theory and Global Warming, (Cambridge University Press, 2003)、『経済学と人間の心』(東洋経済新報社)、『宇沢弘文著作集 - 新しい経済学を求めて(全12巻)』(岩波書店)、Economic Analysis of Social Common Capital, (Cambridge University Press, 2005)ほか多数。

田中 優子(たなか ゆうこ)法政大学社会学部メディア社会学科教授
1952年横浜生まれ。(専門:日本近世文化・アジア比較文化)1974年法政大学文学部卒業。80年法政大学大学院博士課程修了と同時に、法政大学第一教養部・専任講師就任。83年には同大学助教授、86年北京大学交換研究員、91年法政大学第一教養部・教授、93年オックスフォード大学在外研究員、2003年より現職。07年度から法政大学国際日本学インスティテュート(大学院)教授を兼任。近世文学(江戸時代の文学)を専攻するが、その後、研究範囲は江戸時代の美術、生活文化、海外貿易、経済、音曲、「連」の働きなどに拡がってゆく。さらに、中国文学を中心に東アジアと江戸の交流・比較研究、布や生活文化を中心にインド・東南アジアと江戸の交流・比較研究などにおよんでいる。また、江戸時代の価値観から見た現代社会の問題に言及することも多い。2005年に紫綬褒章。現在、国立国際日本文化研究センター運営協議委員、江戸東京博物館運営委員などを務める。主な著書、『江戸の想像力』(筑摩書房・1986年度芸術選奨文部大臣新人賞)、『江戸の音』(1988河出書房新社)『近世アジア漂流』(1990朝日新聞出版局)、『連・対話集』(1991河出書房新社)『江戸はネットワーク』(1993平凡社)、『江戸百夢』(2000朝日新聞出版局・2000年度芸術選奨文部科学大臣賞、2001年度サントリー学芸賞)『江戸の恋』(2002集英社新書)『樋口一葉「いやだ!」と云ふ』(2004集英社新書)『江戸を歩く』(2005集英社新書)など。個人サイト http://lian.webup.co.jp/twin/

山岡 淳一郎 (やまおか じゅんいちろう) ノンフィクション作家
1959年松山市生まれ。出版関連会社、ライター集団を経てノンフィクション作家となる。21世紀の
「共通の利益とは何か」をテーマとして、都市と建築、医療、近代史、スポーツなど分野を超えて
旺盛に執筆。ドキュメンタリー番組のコメンテーター、講演者としても活動中。06年3月に『マンション崩壊』(日経BP)を上梓し、大規模団地の欠陥紛争、ニュータウン開発史、景観裁判、超高層開発などの深層を描き、構造偽装事件を生むスクラップ&ビルド社会の限界と新たな選択肢を提示。
都市問題の追究から、後藤新平の関東大震災後の帝都復興計画の頓挫と東京の混乱に行き当たり、07年3月、単行本『後藤新平 日本の羅針盤となった男』(草思社)を出版。医師から衛生官僚、政治家へと転じた後藤を貫く「公共の思想」に光を当てた。同書は、歴史分野のノンフィクションを対象とする「山本七平賞」の最終候補3作品のひとつに入る(最終選考会は9月)。
他の著書:『あなたのマンションが廃墟になる日』(草思社)、『ボクサー回流』(文藝春秋)、『マリオネット』(文藝春秋)、『命に値段がつく日-所得格差医療』(中公新書ラクレ・共著)など多数。
http://www.ist-magazine.com/yamaoka/

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