
タイトル:「自由」の意味を考える
発行日:2003/01/10
読者の声
■ <北山リグ・政策コンサルタント 2004.02.24>
丹治氏の記事、興味深く拝見しました。全体的な印象としては、失礼ながらなにか
保守的な年寄りの小言のように思えました。
車のしめ飾りがどうだというのでしょうか。あんな物、私はなくてもいいとかねがね思っていました。伝統的な日本家屋の玄関ならともかく、近代的な機械の先端にそのような物をつける感覚が理解できません。といっても、あくまで美的センスの問題としてですが。
年末年始のテレビ番組にしても、まったく同感ですが、見るべきものがないと批判するよりも、見なければいいではありませんか。いわゆるバラエティ番組は、昔で言えば歌舞伎や寄席、落語などの大衆娯楽の現代版と捉えれば、その芸術的価値はどうでもよく、観たい人に観てもらえればいいのです。ただ、現代においては、劇場に出掛けなくても、自宅のテレビで観ることができる。そういう違いはあるけれども、あくまで娯楽だし、相手は大衆です。
携帯メールを批判すると、年齢がばれます。なぜ年賀状がよくて携帯メールがいけないのか、論理的な根拠はなんでしょうか。年賀状を出したいと思えば出せばいいし、必然性については懐疑的ならば出さなければよい。それは携帯電話でも郵便ハガキでも、本質的には同じことではありませんか。
スーパーやコンビニが正月に開いているのは需要があると経営者が判断するからでしょう。また、従業員側でも、正月といって特に何をするでもなく、いつものように出勤してもいいという人が少なからずいるのでしょう。丹治氏がおっしゃるように、昔は何かが足りなければお隣さんに借りに行ったかもしれませんが、それはかなり遠い昔ですし、高級住宅地、下町、マンション、団地など住居形態によっては必ずしもそうは言えないのではないのでしょうか。逆にお隣さんにものを借りに行けるような状況ではなく、コミュニティがうせてしまったがために、正月営業の需要があるのではないか。おそらくは同時進行でしょうが。
福袋は私とっても謎です。ただ、妻に言わせると、福袋の中身は通常で買うよりも3倍は得なのだそうです。なんでもいいからその店そのブランドの物が欲しいという客にとっては、中身が見えなくてもお買い得なのだとか。別に騙されているわけではなく、客は案外したたかに狙いを定めているようなので、咎めることもないのではないか。
丹治氏が「市場主義」「自由主義」を旨としているのであれば、上記の事柄に関してとやかく言うのは矛盾しているように思えます。需要がなければ自然に市場から退場するわけだし(例えば車のしめ飾り、ハガキの年賀状)、とどまっているのであればそれは市場において需要が存在するからでありましょう(例えば福袋、下らないテレビ番組、元旦営業、携帯メール)。何を欲し、何を供給するかは、国民の自由なわけですから、無駄であるとか、下品であるといって、排除するのは全体主義的です。
正月が普通の日になってしまったのは、商業主義や便利さの追求のためだけではないと思います。宗教的な儀式を重んじたり、「家族」という枷があったればこそ、人々は盆や正月に労働を休んだのです。いまでは世の中が進み、宗教や「家族」から解放され、それこそ自由な世の中になったということもできるでしょう。また、ご承知のように欧米では、大晦日まで仕事をし、元日のみが祝日であり、2日から通常の生活に戻ります。正月に感慨ふけるのは単なるノスタルジーではありませんか。