2022.01.06
【代表コラム】2022年新年ご挨拶「ツルツルになった歌」
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大晦日にNHKの“紅白”をパラパラと見た。
新しい歌は全く知らないが、時折昔の歌が登場する。
聞いていると一つ気付いたことがあった。

 

最近の歌詞には、愛とか未来とか世界といった概念的な言葉が多い。それに比べて、以前の歌詞は具体的な描写が多い。
「北へ帰る人の群れは誰も無口で 海鳴りだけをきいている」といった具合だ。
人の様々な思いを歌に託すのはいつの時代も同じだ。しかし、託すものが違う。

 

「お酒はぬるめの燗がいい 肴はあぶったイカでいい」
ぬるめの燗や、あぶったイカのような日常の本当に小さなことに託された思いも、その歌を聞いた人にとっては、人生の折々の大事な場面、体深く残っている感慨を想い起こさせる。そして歌を口ずさませる。

 

小さなことがらや、ちょっとした情景、その具体性が大勢の人を感動させ、共感を呼び起こさせるのだ。それは日々の生活のひとコマを多くの人が共有しているから、それぞれ自分の体験の中で、想いをふくらませることができるということだと思う。狂言や浄瑠璃、歌舞伎などの古典が私たちに感動を与えるのも同じだ。時代を超えた普遍性を持つのだ。

 

最近の歌とそれに感動する若者も、共有すること、共感を覚えているという点では同じなのだろう。ただ、共有することに生活感がない。
今や酒の燗をすることもイカをあぶることも滅多に無い。そんな面倒なことをしなくても、ずっと美味しいものが簡単に手に入る。

 

じゃあ一体何を共有しているのかなと思ってしまう。共有できるのは「もの」ではなく、それを得るための手間や、そこに至る過程ではないのか。生き物としての人間が本当に共有と言えるのは、身体、五感を使って得た体験、感覚ではないのだろうかと。

 

ゲームを通した共感、VRを通した共感もあっていいと思う。しかし、それだけでは結局「生きることの共有」にはなっていない。それでは、SNS上で片言隻句にバズるのと変わらないのじゃないかと思う。

構想日本言葉で言うと、人間関係のツルツル化だ。

 

今の時代、イカをあぶらなくてもいい。湯を沸かし、3分待ってカップ麺を作るのでもいいと思う。そういった日常のちょっとした手間、作業を大事にしたい。
日々の生活をできるだけザラザラに保ち、そのザラザラをこなす中に生まれる襞を共有することが大事だと思う。

 

今の日本人は世界の中で見ても、幸せと感じている人が少なく、相談できる相手も少ないという統計がある。それも「生きることの共有」が少ないからではないだろうか。

ことあるごとに「人材育成」という言葉を聞く。政府は「デジタル田園都市国家構想」でデジタル人材を230万人育成するという。一体、人材の「材」とは何の材料なのだろうか。国家構想というのならば「材」の前にまず生き生きとした「人」を育てることが先決だ。

 

そんなことで構想日本は今年も日本のザラザラ化に奔走します。