理念

求めるより、任せるより、関わろう

まちのことを「自分ごと」として考えていますか。
政治家に求めてばかりではないですか。
行政に任せっぱなしになっていませんか。
これからは、自分たちが関わっていこう。
「顔」が見える範囲で、「手」を貸していく。
そんな人たちが、もっと増えていけば、
増税に頼らなくても、大きな経済成長を望まなくても、
満足度の高い社会を低コストでつくれるのです。

構想日本がめざす社会

「顔」が見えるまち。「手」を貸すまち。

国のしくみに「ガタ」がきた。
日本をはじめとする先進国の国のしくみは、主に3つの柱でできています。国民の暮らしの一定の面倒をみる「福祉」。その福祉の中身を決める、代議制による「民主主義」。それを財政的に支える経済成長=「資本主義」という関係です。戦後60年あまりは、3つの関係がうまく回って現在の繁栄をもたらしましたが、近年、上手に機能しなくなっています。
福祉のために「増税」か。
日本は経済的には昭和の「成長社会」を経て、いま大きなカーブを描いて「定常社会」への軌道を動いています。かつてのような大きい経済成長は期待できません。国の福祉を支える行政事業の元手となるお金が増えないのです。どうすればいいのでしょうか。増税して「高福祉・高負担」の道を行くか。それとも、増税せずに「低福祉・低負担」の道を行くか。
ヒントは「江戸時代」。
「定常社会」のヒントは、昔の日本にあります。例えば江戸時代。世の中は安定し、経済発展もありました。成長率は今よりはるかに小さく、貧しさもありましたが、庶民こそが日々の暮らしを楽しんでいました。とても参考になるのは、警察、消防、教育、公共事業など、現代では行政が行うのを当然と思っていますが、江戸時代はその多くを「民」が担っていたのです。
パブリックとは「公共」そして「民衆」。
欧米ではパブリックとは「公共」を意味すると同時に「民衆」をも指します。パブリック(公共)のことはパブリック(民衆)が担うのが原則であり、その一部を納税とともに行政に委託しているという意識なのです。それに対して今の日本は、公共のことは政治家に求めたり、行政に任せっぱなしで、すっかり「他人ごと」になっています。
お金より、人が「手」を貸す。
公共のことがいったん「他人ごと」になると、「他人ごと化」はどんどん進みます。人々は次々に求め、政治家は無責任にOKするからです。それは十分な税金がなくても続き、借金依存体質にします。今の日本です。そんな社会では人が「手」を貸さず、ツケは未来の世代に回されます。逆に、誰もが「手」を貸す社会であればお金はかかりません。「手」を貸した人も、助けてもらった人も気持ちがいい。つまり、低コストであっても高満足という状態をつくれるのです。
財政破綻した「夕張市」に学ぶ。
ひとつ例をあげましょう。北海道の夕張市は2007年に財政破綻しました。病院の設備もスタッフも治療も従来どおりにはいかなくなりましたが、そのぶん予防医療へのシフトや日頃の健康管理、隣近所どうしで気をつけ合うなど、住民が医療というまちの課題を「自分ごと化」し、地域の支え合いが育まれました。つまり、「顔」が見える範囲で「手」を貸す暮らしが立ち上がったのです。
そうだ、「自分たち」がやろう。
夕張市の医療に限らず、子育て、教育、防災、まちづくりといった、福祉の多くの分野でも同じことが言えるのです。必要なのは「高福祉・高負担」か「低福祉・低負担」か、という金額表示の二者択一ではなく、「低コスト・高満足」という自分が「手」を貸す満足感を取り入れる発想です。構想日本は、まちの課題を住民が考える「自分ごと化会議」を続けてきました。しかも、会議だけで終わらず、自分たちの「手」でまちを担っていくさまざまな取り組みが自発的に生まれています。
「顔」が見える小さな範囲で。
行政や税金だけに任せようとすると、市町村の合併などの大規模集中化が一見、効率よく見えます。しかし、これまでの経験でも、それは格差や無駄を増やし、満足度は低くなります。小さな単位の「顔」が見える範囲だからこそ「自分ごと化」が可能になるのです。
まちに関わるのが「ふつう」になる。
最近では、ボランティア、NPO、住民による地域おこしなど、まちのことに自分たちが率先して関わる活動がずいぶん盛んになりました。「ソーシャル」という言葉を聞くことが多くなったのも、その表れでしょう。特に若い世代が意欲的に取り組む姿を見ると、実に頼もしく感じます。この国に生きるふつうの人たちの間で、「低コスト・高満足」な社会への動きはすでに広がっているのです。